歴史探訪

戦国時代

羽川城からの眺め日本の戦国時代の由利郡には戦国大名と呼べるほどの勢力は存在せず、秋田郡の安東氏、雄勝郡の小野寺氏、庄内地方の大宝寺氏、最上郡の最上氏らの間にあって離合集散し、ときに一揆を結び対抗していました。
主に「矢島氏」、「仁賀保氏」、「赤尾津氏」、「潟保氏」、「打越氏」、「子吉氏」、「下村氏」、「玉米氏」、「鮎川氏」、「石沢氏」、「滝沢氏」、「岩谷氏」、「羽川氏」、「芹田氏」、「沓沢氏」などで、「十二頭」とは後世の軍記物に見える用語であり、史料により数え方が異なります。ここに出てくる「羽川氏」がここ秋田市下浜羽川に居城を持っていました。先祖は新田氏と称していました。

織田信長が天下に覇を唱えたころ、羽川氏と抗争を繰り返していた仙北前田氏が上洛しました。このことを知った、羽川次郎の子の金剛丸(後の義種)は闘志を燃やしました。父を討たれ、戦に決着をつけたい金剛丸は16歳。赤尾津治部とともに由利衆に参戦を呼びかけました。由利勢は数ヶ月前に小野寺氏との大沢山合戦に勝利し士気が高かった。
その後、羽川金剛丸は前田五郎(利信の末弟)と一騎討ちをしてこれを討ち取りました。これを機に由利勢は士気が上がり、ついに打越孫次郎と羽川金剛丸は本丸に一番乗りを果たしました。
前田方の総大将は留守居の前田又四郎(利信の弟)であったが大曲城に火をかけて兄(神宮寺掃部)のいる神宮寺を目指して落ちのびたのです。
大曲城落城です。

故郷での変事を何も知らない、利信は上洛し、戸沢氏の名代という身分も忘れ、織田信長に「仙北大将」と自分が仙北の主のように振舞った。信長も嘘とは気づかず信じ込み、この数ヵ月後、本能寺の変でこの世を去ります。
しかし、帰国して居城の落城を知るや利信は愕然し、弟の神宮寺掃部を頼り、神宮寺で生涯を過ごしました。また御家再興の運動も盛んに行ったが戸沢氏の信用も薄れ、家名再興は許されなかったといいます。
現在、利信は「東北で唯一、信長を騙した男」として知られています。尚、大曲城の場所すら現在、特定されておりません。

戊辰戦争

長浜戊辰戦争碑江戸時代は、久保田藩支藩の亀田藩に属していました。 その後、由利郡下浜村となり、昭和の大合併の際に、現在の形秋田市下浜となりました。
戊辰戦争の際には、東北で唯一新政府軍側についたため、秋田県内全域が戦場となりました。
由利方面の戦いで、本荘は落ち、亀田藩は降伏、庄内軍は亀田と長浜(秋田市下浜地区)の手前道川(岩城町)に陣を構え、一方は海岸沿いに、もう一方は亀田から高尾山を越え、大正寺を通って椿台城を落とそうと激しい攻撃をしかけてきました。
しかし、長浜・椿台は秋田藩の最後の砦、新政府軍の必死の反撃で庄内藩を長浜から道川まで押し返し、さらに新政府軍は、この戦いで初めて海からの攻撃をしかけました。
8月29日、薩摩藩の蒸気船が応援にかけつけ、道川の庄内陣地に砲撃を加えました。しかし、目くら撃ちに近く、あまり効果はなかったようです。
もう一方の亀田から大正寺を抜け椿台を狙う隊に対して、この頃になってやっと新式銃が行き渡った新政府軍は庄内軍を4方向から攻め、激しい戦いの末大勝利を収めました。9月11日のことです。
翌12日にも長浜での攻防がありましたが、この戦いを最後にして庄内藩は自領鶴岡に引き上げることになり、6ヵ月にわたる長い戦いの幕が降ろされたのであった。

PAGE TOP

平成19年度海開き予報は7月7日土曜日

COPYRIGHT(C) 2007 SHIMOHAMA ACTIVATION COMMITTEE ALL RIGHTS RESERVED.